ふじそのあき
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広島と長崎で核廃絶を希求しました。

 広島と長崎に原子爆弾が落とされて今年で78年になります。
 8月6日は広島で平和公園や平和記念資料館を見学し、7日と8日は長崎で原水爆禁止2023年世界大会に参加しました。

多くの中学生が犠牲に

 1988年に発行された関千枝子著「広島第二県女二年西組 原爆で死んだ級友たち」には、8月6日に広島市役所近くで家屋を解体し道路を広げる作業(建物疎開)をしていた広島県立広島第二高等女学校二年西組の40人と、引率教員3人、そして著者を含む欠席者7人の行動と家族・遺族の戦後の暮らしぶりなどが大変詳しく調査され、記載されています。
 高等女学校の2年生は13歳〜14歳で、今の中学2年生と同年代です。そんな子どもが「小さい兵隊」とみなされ学徒動員されて、8月6日の朝8時15分、作業が始まった時刻に原爆が投下されました。動員に参加していた生徒と教員は全身に大火傷を負い、ほとんどがその日に亡くなり、お一人の生徒だけが戦後まで生きられました。

 被爆直後、クラスは皆で300メートル離れた日赤病院に向かったが、火傷で皮膚がめくれたため手がつなげず、顔が腫れて目が見えなくなり、クラスは離れ離れになってしまった。何人かは軍の救助トラックに助けられ離島に運ばれたが、家族は娘がどの島に行っているのかわからず会えないまま亡くなった。火葬の場所が足りず、他の遺体と一緒にせず娘だけで火葬したいという親の気持ちすらわがままだと言われるような状況だった。

 広島で14万人、長崎で7万人の方が犠牲になりました。鉄も溶かす3000度〜4000度の熱線による全身のやけどで、誰だかわからないほど損傷し、見つけられずに亡くなられた方が多くいました。

 広島平和記念資料館の展示にも中学生が多く亡くなったことが示されていました。

高校生が描く「原爆の絵」

 「高校生が描く原爆の絵」は、おととし横須賀市立市民活動サポートセンターで展示があり拝見しました。被爆者の記憶を伝承する、大変重要な活動だと思い、強く印象に残っています。広島平和公園内の広島国際会議場で8月24日まで展示を行なっています。
 今回その中で「被爆前の産業奨励館」の作品が印象的でした。原爆が奪ったものの凄まじさを感じました。産業奨励館は原爆ドームの元の姿です。原爆ドームの絵も並んで、広島平和記念資料館ホームページに格納されています。https://hpmmuseum.jp/modules/info/index.php?action=PageView&page_id=184

核兵器廃絶へ

広島平和記念資料館には平和記念式典で市内の子どもたちによって読み上げられたばかりの「平和への誓い」と広島市長「平和宣言」が展示されていました。

 8月6日の広島平和記念式典で広島市長は、「核抑止論」は破綻しており、核兵器による脅しが現に起こっていると訴え、非暴力こそ最大の武器というガンジーの言葉を紹介しました。
 広島県知事も「核兵器は存在する限り人類滅亡の可能性をはらんでいる。私たちは次世代に真の平和を手渡す責任がある。」と、核抑止論を批判し、核兵器廃絶が現実的だと話しました。
 8月9日の長崎平和記念式典で長崎市長は、原爆被害の実相が知らされていないことと忘却により、核兵器使用の危険性が高まっていると指摘し、核抑止に依存せず核兵器廃絶への道を進むよう核保有国と核の傘の下にいる国に対して求めました。
 広島ではたくさんの外国人が展示物一つ一つの説明をじっくり読んでいる姿が見られました。なぜ戦争が起こり広島と長崎に原爆が落とされたのか。そこでは人々がどんな暮らしを営んでいたのか。戦後の核実験競争。NPTによる核軍縮実行の必要性と核兵器禁止条約。
 全世界に向けて核兵器廃絶を発信する広島と長崎の姿と、そこに世界中から集まり平和を希求する人々の姿に希望を見ました。核兵器廃絶のためには全世界で、そして国内各自治体でも、一歩ずつ進むことができます。広島と長崎は力強い平和の発信地です。今年両都市を訪問して私自身が大変励まされました。